第三章
「……天馬、天馬ったら、どうしたの? ぼんやりして」
机で頬杖をつき、あらぬ方向を見ていた天馬を不審そうに恭介が覗き込む。
「へっ? あ、ああ、わりぃ」
「次、音楽室だよ。教室移動しなきゃ」
音楽、美術、書道といった芸術系の三教科の中から、文弥も含めて三人が選択したのはもちろん音楽である。
「そうだった。サンキュー」
そんな天馬の言葉に、はにかんだような表情を見せた恭介は一足先に教室を出て、彼のあとを追うように天馬も音楽専用の教室へと向かった。
音楽担当の津田美月(つだ みつき)教諭はBBFの審査員の一人でもある。大学を卒業して五年というから今年二十七歳になるが、かなりの美人でありながら、気さくで明るい性格の彼女は独身男性教諭だけでなく、男子生徒に既婚の教諭まで、校内の男性みんなの憧れの的でもあった。
教師が着用するにしては派手な色合いのカットソーの胸元は大きく突き出し、果たしてEカップ以上あるのかどうかが男子たちの議題になることもしばしばで、七分丈の袖をたくし上げると、津田教諭は教壇の上に教科書を乗せたまま、楽譜が印刷された用紙を配り始めた。
「今日は教科書から離れて、この曲をやります。クラッシックや唱歌みたいな曲ばかりじゃ、イヤになっちゃうでしょ」
いたずらっぽく笑う美人教師から視線を移して、皆、一斉に手元の紙を見る。そこには有名を通り越して伝説となっているイギリスのロックバンドの名曲の譜面が踊っていた。
「これ、バンドスコアじゃねえか」
天馬が隣に座った恭介に小声で囁くと、そうだねという相槌が返ってきた。彼らの曲をコピーして練習することもあるサジタリアスメンバーには馴染み深い一曲であるが、現役高校生よりもその親世代、あるいは祖父母世代の方が聴く機会の多い曲だったせいか、知らないと首を傾げる者もあれば、わかっているのかいないのか、うんうんと意味もなくうなずく者もいた。
「歌詞、全部英語だぜ」
「当たり前だろ、イギリス人の曲だし」
ひそひそと会話する生徒たちを嬉しそうに眺めていた美月だが、やがて天馬に目をとめると「それじゃあ初めに、お手本として歌ってもらおうかしら。サジタリアスの名ヴォーカリストさん、お願いね」と言い、彼女の提案を受けて、クラス全員の視線が天馬に集中した。
「えっ、オ、オレ?」
キョロキョロする天馬をよそに、美月は教壇を明け渡して「さあ、こちらへどうぞ」と促した。
「マイッたなぁ、マジっスか?」
ぶつぶつ呟きながら、天馬は腰を上げた。英語は苦手教科だが、それが歌詞となると一変、暗譜でバッチリ歌えるあたりを英文法の担当教師にからかわれたおぼえがある。
『うーん、並木よぅ。この点数はちょっといただけんなぁ。おまえ、英語のテストは歌で受けられたらいいのに、って、つくづく思ってるだろ』
『えっ、そういうテスト、受けることができるんですか?』
『そんなもん、あるわけないだろうが。もっとしっかり勉強しろ!』
『へーい』
ともかく、天馬の歌唱力、英語の歌詞を簡単にマスターできる能力も含めて、歌に対する才能は天性のものだった。
それを知ってか知らずか、美月は今日のお手本として天馬を推薦したわけだが、すると一部の、恭介ファンの女子生徒たちが騒ぎだした。
「先生、それなら金子くんのギターも聴きたいです」
「同じバンド仲間だし、ねぇ」
「……同じバンドでも、ボクの出番はナシなんやけど」
文弥が不服そうにボソッと呟いたが、残念ながらドラムセットは置いていない。
リクエストを受けて伴奏を命じられた恭介と共に、黒板の前へ並んだ天馬に緊張感がみなぎってきた。
大会の大舞台とは規模が違うけれど、人前で歌うのはヴォーカリストにとってプレッシャーでもあり、醍醐味でもある。
「これって、出だしはピアノで、ギターじゃないんだけどなあ……恭介、弾ける?」
いつもはエレキを持つ手に、音楽室備え付けのアコースティックを持った恭介は自信なさそうに返事をした。
「まあ、コード押さえるだけなら何とか」
「何回か練習したこともあるし、とにかくやってみるか」
頷いた恭介が前奏を弾き、やがて天馬はゆっくりと歌い始めた。
遠く離れた恋人を想い、焦がれる歌。君はどこでどうしているのだろう。今でも愛していると言ってくれるのか……
バラリとした髪、鋭くも寂しげな瞳、滅多に開かない薄い唇、すべてが整いすぎて近寄りがたい男。
その人が初めて見せたのだ、このオレに温かいまなざしを、優しい笑顔を……
彼の面影が浮かんできた、自分自身の心に戸惑いながら、天馬はなおも歌い続けた。
(丈……おまえの気持ちがわかんねえよ。本当にオレが好きなのか? それとも嫌がらせなのか、はっきりしろよっ!)
天馬と丈の前に立ちはだかる壁、それはお互いが男、同性であるという、高くそびえる頑強な壁──
(どうしてコクッたりしてきたんだよ。解釈は任せるなんて、無責任じゃねえか! オレは、オレはおまえを……)
天馬の歌声が室内に響き渡ったあと、美月は真っ先に拍手をして、二人の奏者を褒め称えた。
「素晴らしいわ、並木くん! 文化祭のときよりもずっと上手くなってるわよ。歌に感情がこめられるようになったわね、ハートがあって、とってもよかったわ」
歌に感情がこめられるようになった?
それは丈に指摘された、自分のヴォーカルの弱点を克服した証。その面影を思い浮かべて、知らず知らずのうちに歌っていたのか、彼への想いを……
(うっ、嘘だ! オレがあいつを、男を好きになるなんて、そんなの冗談じゃない。あんなことされて、笑顔なんか見せられて、ちょびっとおかしくなってるだけだ!)
教師とクラス全員の賛辞を浴びながらも、浮かない顔をする天馬を恭介が心配そうに見つめる。
これはまだ、ほんの序曲に過ぎなかった。
◆ ◆ ◆
そうこうするうちに土曜日になった。この日の午後は久しぶりのセッションである。
駅前商店街に店を構える『水谷楽器』、ここの二階にあるスタジオで天馬たちは定期的に練習を行なっていた。
店名が示すとおり、この店は文弥の叔父にあたる人物が経営していて、彼の甥っ子はここから通学している。
叔父夫妻には子供がおらず、息子代わりの文弥がメンバーに加わったことでサジタリアスは優先的に、しかも無料で部屋を貸してもらえるというわけだ。
文弥の叔父、水谷健二は「ちょい悪オヤジ」を宣言し、自らオヤジ仲間でバンドを組み、活動を行なっている愉快な人物で──軽薄な流行語に乗せられてどうすると、叔母には不評を買っているが──彼から楽器の情報を仕入れて参考にするのは有意義だったし、一緒に繰り広げる音楽談義も、若い高校生たちにとっては楽しみのひとつであった。
「やっぱり、あの頃のロックが一番ロックらしいよ。楽器ひとつひとつの音が生きている。今は機械に頼りすぎだな」
あの頃──六十年代から七十年代にかけてのロックをこよなく愛する健二の口癖に影響されたのか、天馬たちも「あの頃のロック」を好んで聴き、演奏していた。
三部屋あるスタジオはそれぞれ六畳ほどの広さだが、そこにドラムからアンプ、マイクにキーボードといった備品がゴチャゴチャと置かれて、かなり手狭である。
土曜日の午後とあって、一番乗りだと張り切っていた天馬は『ちょい悪オヤジ』に挨拶を済ませると、真っ赤なパーカーを翻して階段を駆け上がり、右端の部屋のドアノブを引いた。
「ヤッホー、天馬。早出出勤御苦労さん」
中から声をかけたのが遅刻魔の文弥とあって、天馬は目をむいた。同じ建物内に住んでいるという油断から、彼が到着するのはいつも最後だったのである。
「どういう風の吹き回しだよ、おまえが一番に来るなんて嵐の前触れ?」
「いやあ、さすがに心を入れ替えようと思うて。今年こそは入賞したいやんか」
そう言って文弥は照れ臭そうに笑い、これまでの怠慢に対する反省を述べた。
「それはいい心がけだね。せいぜい頑張ってくれたまえよ、文弥くん」
「エラそうに。せやけど、まあ……」
スタジオだけにしっかりと防音対策が施されている室内は小さな窓がひとつあるのみで、そのためエアコンは年中フル活動している。
昼間にもかかわらず明々と点灯した照明の下で、ド派手なピンク色のTシャツの袖をまくり上げた文弥はハイハットをセッティングする手を休めずに話を続けた。
「天馬のヴォーカル、えらい上達したって、津田先生が褒めとったで」
「オレと恭介で前に出された、音楽の授業のことだろ」
「この調子なら、今年のBBFで入賞狙えるんやないか、って」
「おまえ、先生とそんな話したの」
「休み時間にちょこっとな。なんせ、去年のベストヴォーカルに天馬を推薦したのはあの先生や」
その時、最終的にベストヴォーカル賞を獲得したのは当時の三年の生徒だったが、審査員を務める音楽教師から太鼓判を押されて、天馬は大いに自信を得た。
「そうか、津田先生が……照れ臭いけど嬉しいな」
「天馬と恭介はええよ。楽器ナシじゃ、ボクの出番があれへん」
「机でも叩けばよかったじゃねえか」
「アホぬかせ」
文弥は天馬を睨む真似をして笑った。
「出番が欲しいから、学校でドラム買うてくれと注文つけたったんや」
「それならキーボードとベースも買ってくれ、ついでにアンプも、って頼んでくれよ。学校で練習できる」
軽口をたたきながら、ベースという言葉に反応する自分に、天馬は苛立ちを感じた。今からこの場所で彼と向き合うと思うと、異常なほど緊張してしまう。
「歌にハートがある、か。天馬、好きなコができたんちゃう?」
「えっ、な、なんだよ、急に」
「ほれ、赤くなった」
図星やな、と文弥はニヤニヤ笑いを向けた。
「で、相手は誰? ウチのクラス?」
「違うって」
(それを言うなら隣のクラスだよ)
「この文弥さんに隠し立てしても無駄やで。男と女の問題なら、何でも相談に乗ったるさかいに、遠慮なく言うてや」
経験豊富なモテモテ男は勝手に天馬の恋愛話を作り上げ、すっかり恋のアドバイザー気取りだった。
「だから……」
違う、根本から違うのだ。
男と女ではなく……
すると、ニヤニヤ笑いを引っ込めた文弥は神妙な顔つきになった。
「まさか天馬、好きになった相手って、男ちゃうやろな? 天馬は男に人気あるやん。この前挨拶にきた一年坊もそうやし、D組のヤツで……」
そこで彼は数名の男子生徒の名前を挙げると、いずれ天馬がそっちの道に引きずり込まれるのではと危惧していた、と述べた。
「歌ってるときの天馬は色っぽいって評判なんや。それって、そのケがある連中にしか、わからん感覚やろな。天馬がカワイイのはボクも認めるけど」
「おまえまで……からかうのはやめてくれよ。男のカワイイなんて、自慢にならないぜ」
核心を突かれそうになって心拍数が上がり、身体によろしくない。疲れた表情を見せる天馬に向かって、文弥の爆弾発言が炸裂した。
「カワイイと思うのはボクだけやないで。天馬ファンはすぐ傍にもおる」
「……そっ、そばぁ~?」
(ダメだ、バレてるかも)
心拍数は最高値、血圧も急上昇の天馬は頭がくらくらして、倒れるように壁にもたれかかったが、文弥はしれっとした顔で続けた。
「恭介や。その様子じゃ、全然気ぃついとらんかったやろ」
「は……? 今、何と?」
「恭介が天馬を好きやっていう話」
「きょっ、きょっ、きょっ!」
「何や、出来損ないのウグイスみたいな声出して」
天馬にとっては衝撃的だが、文弥は平然として、恭介の想いにはずっと前から気づいていた、土門宗吾が現れた時は新たな天馬ファン、強力ライバルの登場に、敵対心むき出しだったと付け足した。
「いつもは物静かなあいつが凄い剣幕やったからな。あの二人なら、美形レベルはどっこいどっこいや。あとは天馬のお好み次第ってとこ……」
「ふっ、ふみやく~ん」
プルプルと腕を振るわせる天馬を見て、アハハと笑って誤魔化した文弥は「冗談や、冗談。天馬には好きな女の子がおるってわかったんやし、もうからかったりせんから安心してや。あ、今の話、恭介には内緒な」と言って、天馬の肩をポンと叩いた。
「当たり前だ! 口が裂けたって、言うわけねえだろ!」
肩に置かれた文弥の手を振り払うと、天馬はブスッとした表情のまま、ベストポジションを決めようとマイクの位置を動かし始めたが、動揺は隠し切れなかった。
(恭介がそんな気持ちでいたなんて……)
本当にそうなのだろうか? 文弥の思い過ごしならばいいのだが、丈の例がある以上、あり得ないことではない。
もしもそうだとしたら、天馬を見守る恭介が丈との関係に気づく、という展開もなくはないのだ。
そこまで考えると、天馬は胃のあたりが痛くなってきた。どうして男が男関係で悩まなくてはならないのだ、丈ひとりですら、ままならないのに、これ以上のゴタゴタは勘弁願いたいと思う。
しばらくして噂の恭介がやって来た。淡いグリーンのワイシャツにインディコブルーのジーンズ姿は男でも惚れ惚れするほどのカッコ良さで、彼のような美男子に好かれるというのは、相手が同性であったとしても悪い気はしないものである。
しかし、それを意識し過ぎて「よう」と挨拶する自分の声がぎこちなくはなかったかと、天馬は気を揉んだ。
「あれ、二人ともずいぶん早いね」
ここでとんでもない噂をされていたとは知らずに、恭介はギターのケースをアンプの傍に立てかけたあと、配線を確認し始めた。それから、青く光るメタリックな本体をアンプにつないでチューニングを開始、その真剣な表情に見惚れている自分に気づいて、天馬はブルブルと首を横に振り「何やっとるん?」という文弥の突っ込みを食らってしまった。
「えっと、首の運動。こりをほぐして、しっかり声が出るように、ってね」
あまりにも嘘臭い言い訳である。
それでも天馬がわざとらしい体操を続けてみせると、弦を弾いてペグを調節していた恭介は吹き出しそうになるのを堪え、肩を震わせた。
天馬と出会い、バンド仲間に加われたことを何よりも喜んでいる。みんなで過ごす時間が楽しくて仕方がない──
恭介のそんな様子を見て、中学まで友達と呼べる人がいなかった、何かの機会にそう洩らした彼の言葉を天馬は思い出した。サジタリアスの四人は恭介にとって、ようやく手に入れた友達なのだ。
バンドの中でもエレキギターという派手な楽器を扱うわりには、恭介は万事に控え目な男だった。たとえ本心は文弥の言う通りだとしても、土門宗吾の存在が気になったとしても告白などせず、胸に秘め続けるだろう。
大切な仲間同士の輪を乱すなんて、彼にできるはずはないし、今までどおりに接するのがお互いのためだ。
(そうだよ、それが普通じゃねえか。なのに何でキスなんか……)
心を乱せば輪も乱れる。そんな事態を招きかねない行為を思い出すと、天馬の中に怒りがこみ上げてきた。
(クソッ、丈のヤツ……)
「天馬、天馬ったら、どないしたん? 心ここにあらず、になっとるで」
文弥の咎めるような、それでいてからかう声が聞こえて、適当な言い逃れをしていると問題の人物がノックもせずにのっそりと入ってきた。天馬の心臓がドキリ! と大きく鼓動する。
この季節にしては暑苦しい、黒の上下をまとった丈は先着の三人に挨拶するでもなく、ベース用のアンプの前まで進むとクロマチックチューナーを取り出して、さっさとチューニングを始めた。黒と赤で塗られたモデルがいかにも彼の趣味らしい。
「まさか、例のコのこと考えて……」
抜群のタイミングで余計なことを言う文弥を睨むと「違うって、やめろよ」と嗜めた天馬はそれから、時計を見るふりをしつつ、目の端で恭介を、丈の様子を窺った。
動揺したのか、それでも平静を装う恭介と、まったく動じない丈。
どちらもどういうつもりでいるのか「例のコって誰?」という質問もなく、淡々とチューニングを続けている。
(何だよ、オレひとりでアセッて、バカみてえじゃねーか)
内心舌打ちしながら、話題をすり替えようと、天馬は誰となく尋ねてみた。
「いつも一番に来る朋が遅刻なんて珍しいよな、連絡あった?」
「ボクは何も聞いてないで。メールも入っとらんし」
「今日、練習あるってのは知ってるはずだよなぁ?」
「こっちに向かってるのはたしかだと……」
そこまで言いかけて、恭介は口をつぐんだ。ドアの向こうに人の気配を感じたからで、それはもちろん朋成だったのだが、彼の背後から顔をのぞかせた人物を見てギョッとしたらしく、天馬もそちらを振り返る。
そこにいたのは土門宗吾だった。
……④に続く